ただのヒキニートのブログ

世界一適当を目指す  人類はよ滅びろ

社会で台頭して気持ちよくなることを志す人のことを自分の承認の道具としか思っていないようなクズ野郎ほどめっちゃ勤勉

俺は、外部からの印象と、実際の行動ほど、その一致に信頼が置けないものもないと思っている。結局、各々の内部・内情を直には見ていないからだ。

ガワだけ見て、適当に全てを決め付けて満足したがる奴というのは、現代には多いが、では、その確定と固定によって何をどう得て満足して、そこから何が興っているというのか。また、それを具体的に言語化できるのか。仮に何も興っていない気がするんなら、何のためにそうするのか。それは、誤った思考回路の構築からの、エネルギーの空費に繋がるのではないのか。

何故か、だが。社会というものは、各々に『専売特許』を与える。勝ち組には勝ち組の、負け組には負け組の専売特許がある。
すなわち、互いに何らかの誇り、もしくはそれとは似ても似つかない言い訳を有していて、「自分で自分を邪魔すること」を望み続ける。

ただ、愚者共が、如何なる思考により、何を吐き捨てようとも、俺は、結局は、どうあっても、勤勉で、誠実で、情熱があって、努力を振り撒いてくれる人間こそが好かれる、ということを知っている。
だから、タイトルにあるような「台頭欲」がある奴というのも、人間としてはクズかもしれんし、時には、けつあなやツルツルが確定したりもするが、他者を掌握するために実直に動いている点では間違いないので、この世界でも(本性さえ露わにならなければ)愛される。一見不真面目そうでも、そういう奴ほど、自律の仕方を分かっている。

ただ「何が正しいか」というのは必ずしも、単なる社会的な価値では測れない。社会は、個人を無視した一律だからだ。

要するに、誰しもくだらない理由で他人や世間を消費し、消費されるよりもまず、己としてやることが、まだまだあるのではないかと思う。俺は、言われるまでもなくそうしている。
Youtubeだか、Twitterだか、5chだか、まとブロだか、そんなのに貴重な時間を捧げてやっている輩が何を言っていようとも、ハートに響かんぜ。匿名なら尚更。

俺からすればそれは、ウンコをしたくなったらトイレに入ってすぐ出ているんじゃなくて、トイレにこもってウンコが出るのを待つために他のすべきことを犠牲にしているかのようだ。前者の嗜み方ならまだ、健全な遊びの範疇であると言えようが、後者のような「行動と目的の反転」は、絶対に自分にとっていいことにはならない。

俺は、誰かが負け組や底辺を嘲笑したり、他の頑張る人間を冷笑したりすることで、安心したければ、勝手にすればいいと思う、というか咎める権利もないしどうでもいいが、俺の優しさからして、「そんなのはお前の長期的な利益を手放すだけにしかならないぞ」と言っておくし、もしその通りであった場合、その“事実”に反した責任は、自分で取ってみせるというのが、筋ではないのか? 少なくとも、社会に出て偉そうにしている分際なら、それくらいの責任くらいは果たしてみせるべきだ。その覚悟の上で、今日も笑うがいい。

しかし俺としてはやはり、そういう社会的な楽しさや気持ちよさとは、半々未満で付き合っていくことを奨める。結局のところ、「しょうもないから」に尽きる。それに苦しむ者だって、同じことだ。

俺は長いこと、この社会で自分を否定される立場だったが、どんなに世間に否定されようとも、自分で自分を否定してみせようとも、特にこれといって有意義な行動も意欲も成長も生まれなかったから、まず自分を肯定的に見てやったところ、自分らしく動くことができるようになり、行動力も増し、社会の求める動きというものがかえってできるようになった。自分を否定して、悲観的に見ていたころは、あんなにも何にもならなかったのに…………そんな経験からも、そのような社会的価値の応酬にはまったく意味を感じておらず、距離を置いている。

俺も別に、勉強や練習をすることだけが正しいとするのはつまらないと思うから、そういうのがあってもいいとは思う反面、
危惧しているのは、どこまでも考え方が飛躍し、自分から乖離し、地に足のついた考えと動きができなくなる人間が増えることである。

人間の効率の追求とは、勉強とは、成長とは、「脳髄を建設的な方向に変えて見せること」を言うと思っている。
なのに不思議と、人間的な事象の判断と正義においては、それをスルーしてもよいと思っている人間が多い。

真に勤勉であり、誠実であり、自分らしく輝いているのならば、社会に縋って感情的に遊んでいる時間も、それに魅力を感じる自分なども、どこにもないはずだ。

そういうわけだから俺は、このブログを真面目に更新する気もない。マイペースにやらせてもらう。発散に真面目だと、成長に不真面目になる………。