ただのヒキニートのブログ

世界一適当を目指す  人類はよ滅びろ

真面目な話の真面目な話

俺は、真面目な話をするのがあまり好きじゃない。というのも、そんなのは社会で追いやられている俺がしてやらないといけないことでもない。

本来は社会的な価値・立場を有する者がしかとそうした言論及び表現と統制により世界を良い方向へと誘導して人々を統率していなければならないことなのであって、つまり、社会的にひたすら弱い俺がそのような真面目な話をしなければならないと思うとき、世界の権力者たちの放棄した職務の分を押し付けられて職務とさせられているところがあるわけで、俺がそういう行いを自分からやりたいと思っているところがあるにしても、結果的に世界の尻拭いをするかのようにして動くことになるというのは、理に適っていない。

それなのに、「はいほい、お任せくださいよ~」という風に動いていけば、たとえその動きが誰かにとっての意味になれたとしても、世界が職務を放棄したままであることは変わらないのだから、現世人にとっては有難いことであっても、尻拭い分は必ず、未来人へと向かう。俺は、そんなのは『真の善』とは言わないと思う。その社会的に弱い存在が、異端的で広範的であるほどに、そうなのではなかろうか

また、前々回の『金の話』でも言ったが、金銭には諸々の「善」が宿るのだからこそ、民主主義という名目で動くことが許されているにしても、俺が社会的な報酬を得ない以上は、限度がある。まぁ、現状はそこまで深く考えなくてもいいと思うが。

世界が自浄的に正しい方向へ向かっていけなければ、世界の法則が誤っていることを認めない限り、もはや未来はないわけで、しかし誤りを認めるというのは簡単なことでもないのであり、だから時に、積み上げてきた罪に目を向けないでもよい “短絡的な交配” を希望するのだろうが、その権限も世俗的な権力という、先人にも否定された程度のものによってでしか肯定できず、世俗に頼る以上、異端がそこに染まることは永劫ないので、ゆえに現状は、異端者の職務はないどころか、責任を宿すこともままならない。
世俗が世俗を肯定し、権威が権威を肯定し、下劣が下劣を肯定するそこに異端者の介在余地はどこにもない。今後、数百年はそうだろう。

要するに、「社会で否定されるもの」は、法の範疇であれば「社会のためにならない動き」や「社会を無視する動き」をすることは、実質的に認められる。「人のため」云々言われても、自分が嫌ならしなくていい。本当に社会が “底辺” を必要とするのであれば、そもそもちゃんとそいつらもなるべく上手いこと『肯定』してみせるべきなのである。一点に集中してウハウハするようなことなどはかなぐり捨ててね。
しかしそれが出来っこないのが、“人を人以外にさせる” 社会と資本主義の生み出した功罪なのだ。神格が働けば、下賤な民に用はない。どんなに「善」を前面に押し出してそれっぽい説法をしてくる者がいようが、それが現実なのさ。

ただし、民側の意見としては、社会に反射的に反発しているだけでも、この現世に漂う自分にとって、いい展開が待っているとも言い難いから、同類共はその辺は半々で、バランス良く考えていった方がいいだろうな。要は、社会的な善悪とは程々に付き合うのが一番良いと………だが、レールから外れてしまった存在は、もう下手に「社会的に台頭しようとする自分」には目を向けないで、まずは、“自分自身” として動いていくことを勧める。

そこらに関する深い話やアプローチは、また追い追いやってくとする。ただ、かつて引きこもりだしたときの俺は、「頑張ればレールに戻れるんじゃないか」と考えている部分があったし、「アラサーの無職」という立場も自分とは無縁に思っていたはずなのが、現実問題そんな話でどうにかなるものでもなかったのだからこそ、社会の価値観自体には『自分を引き上げてくれる力』なんてのは最初からどこにもないと、そう言っておきたいのである。社会の価値観というレールには、何も自分がともなっていない。それに固執して囚われるのは、意味が無い。アホ。

まぁそんなこんなで、この俺を堕落させることによって、数々の天上・安寧・愉悦は保たれているわけだ。俺だけに限ったことではないから、社会的な成功者がその高さを保つために、結果として何を踏み躙り、幾多の屍を築いてそこに立っているかを自覚しないことには、そこから発される豪雨もまた、正しさの芽を育てるどころか、根絶やしにすることにしかならない

要するに、俺に何らかの『社会に介入する才』があったとしても、これは基本的には “使ってはならないもの” だと考える。もし、「ヒキニートにもめっちゃ才能が有りました」とか軽はずみに認めちゃったら、その価値を実在する価値にできないこの世界はどんだけしょうもねーんだ、って話になるだろ。そんな世界で認められた者たちは? まぁ、俺は才能自体はあると思ってるけどw

何より、徒労である以前に、そのような話をすることで「真面目な印象を持たれる」のは、この社会においては、けして良い事だけでもないわけだ。とある芸人が「自分はかつていじめられていた」ということを告白していたが、それを見て俺は、(いやいや、人を笑わせるのが仕事であるこの人にそんな役目を担わせてやんなよ……)と思ったものだ。その人はその人で素晴らしいんだけどね。「真面目な印象」や「現実的な印象」は、芸人にとってはあんまよくないことくらい、その道のプロほど理解していることだろ?
俺だって別に芸人じゃあないが、基本的にはうんちぶりぶりしていたいのである。

ただそれでも俺は、十数年の引きこもりを「それはもう孤独に」経験している間に、辛酸を舐め尽くし、地べたを味わい尽くし、血の池に浸かりきって感じる温度すらも麻痺したような、そんな自分だからこそ、できる思考があって、自分にしかできない動きもあると思っていて、今の俺がそうしないでコソコソ動いて、仮に億万長者になったとしても、そこでの俺は心の底から笑えるのだろうか?という疑惑がずっとある。マズローの承認欲求だかなんだかでも最上位には『自己実現欲求』があるが、それには『そういう何か』……つまり、「自分だけが気持ちよくても際限がない」、そういう事実があるということを示している。

だから俺は、今のうちに置ける自分は置いておこうと思う。それは「社会のため」じゃないんだ。大事なのは、そんな主語がデカい話じゃなくて、『自分がひとりでも、たったのひとりでも』だ。最近読んだ野村克也の書にも「人を人として認めない者に、人望が集まるはずもない」とあった。俺は、このジイさんに言われるまでもなくそんなことは分かりきっていたが、まぁ改めてその通りだと思った。そこのお前は、人を人として認めながら生きようとしているか?

軽はずみに「みんなのため」を価値とする奴は、「ひとりのため」の尊さを度外視している……!!!

そんなんで、「みんな」は絶対に変わらない。表面的に広範の洗脳に成功しても、そんなのはいつか解ける。意識の高い大企業様というのは、結局はくだらん欲望に従っているばかりで、この程度のことを考える知能もない浅はかでちっぽけな集団なのさ。

俺がここにいるのも他でもない、そういった「誰かひとりにとって少しでも『建設的な何か』になる “可能性” のため」である。そして「ないよりマシ」を貫くためである。
あとはせいぜい暇つぶしと、親孝行か。
まぁいうて、人望は別にいらんのだけどな。んなもんクソくらえ。めんどくせーんだ
まー、今後の俺の情報の中から使えるもんは使って、使えないもんは無視すればいい、本当に。お下劣現代社会で割り切ってくスキルは大事だよ。
人間にそれ以上の関係なんて必要あるか?  いや、基本ないと思うね。ないから、成功者の人間性を深く知らんくても、それでいいんだろ。そんなだから、けつあなやツルツルが確定してギャーギャー騒ぐんだろ。赤の他人とは最初から、そのくらいの距離感でいいんだ。付き合いたい奴が現れたら、その都度そうしたらいいことだ。

んで結局は、俺は俺で、俺のやりたいようにやることをやるってだけよ。

だからその点に関して、俺が「人のために善行をしている」とかも思わないでいい。そういう目線は野暮だ。「ひとりのため」なんてのも、結局は俺の思想に過ぎない話だから。そういう素晴らしき救済がお望みなら、まずはお金がっぽりマンたちに頼ってくらはい。それが現世のルールです。
俺は社会に存在しないわけで、報酬もないわけで、とうぜん責任もないから、俺としてハナほじりながら動くだけでーす。
(一応、民主主義かつ情報社会だから0ってわけでもないけど、ほとんど0なのは間違いない)

ま、そーいうわけだから、このブログでは真面目な話も度々挟んでいくつもりだが、真面目な内容は別のブログに分けてそっちで記すのでもいいかもしれないね。ネタと真面目を行き来したら、感情の起伏が激しさから「これキ○ガイの記事ですわ」とされそうなのも癪なんでな。けど現状は、一つにまとめた方が、俺という人間のことを理解できるし、意志もちゃんと汲み取れるのではないか……と考えている。
場合によっては、Twitter、Note、Scrapboxといったサービスを使うことも考える。