ただのヒキニートのブログ

世界一適当を目指す  人類はよ滅びろ

金の話

ブログ開設前から色んな意味で悩んでいたのだが、Amazonの「欲しいものリスト」を置くことにした。
別に、金のためにこのブログをやっているのではない。俺の価値観の頂上は、決して金ではないということだ。俺にはそこまでの欲がない。
それなのに、金銭的な対価を得ようとする行為をすることで、強欲だと思われる余地ができるのは好ましくない。

以下の話は、全く載せないことも考えた。何故なら、「俺の考えていることを話すことが、俺の動きを否定したい“だけ”の者において、『隙』になりかねないから」だ。黙ってそうしていれば、むしろ誰も何も言えないはずなのだが、やはりこれが俺という人間であるので、金銭に関する面倒な話もここでしておくとする。

 



ここで一つ話をさせてもらう。
世界には『チップ』という概念がある。お前らに質問だが、「自分にチップをくれるクズ」と「自分に何もくれないただ敬ってくれる人」とでは、どっちの方が有り難いか?  そんなのは聞くまでもないのではないか?  特に、長期的に見てどうか。

要するに…………現実問題として金および余裕がなければ、人に優しくする(優しいと思われる)にも限度があるということだ。

この世界は儲けてる人間がいると必ず誰かが「結局金じゅわぁああ~~~んうっひゃああーーーーww」と軽率に言うが、自分の生き様の対価とも言える金銭というものは、本来もっと『重い』ものなのだ。現代では何もかもがタダだし、スパチャッポォッーーンッッッしてっから感覚が麻痺してっけど。しかし「基本無料」にも、それを維持するための並々ならぬ努力があるはずだ。

ゆえに、他人の為になる建設的な行いをしても「儲からない」ということは、ある種「自分の生き様が認められていない」ということなのであり、「人に信頼されておらず、この世に存在していない」ことだと言える。「儲けようとしない」こともまた、「自分の生き様を認められようとしていない」ことである。それは、『他人の為に死ねます』と言っているのにも等しい。

また、その「自分が認められない分」はとうぜん、他人の方にあっけなく回されるので、それだけ、他人にも自分という存在を与えづらくなる。すると、自分のことをよく思ってくれる人に対しても、裏切るような生き方をすることになる。

厳密には、「自分を与える資格がない」と言った方が正しいか。
『金銭』というのは『世界介入権』にも等しい。権限なくしてあまりにも好きに動くのは、“無免許運転” も同じことなのだ。金銭には、信頼、信仰、意義、権力、責任………残念ながら、現代ではそういった諸々が確実に内包されている。


儲けている者たちを強欲とし悪とし、自分が儲けないことで相対的に清廉潔白を演じることもできようが、それ自体がくだらないし*1、第一そういうのは、教祖でも目指している人間のやることだ。そういうやつは結局、信者が増えてきたどこかの段階で金をせびりだすけどね。

中には自分から「心ではちゃんと信じています、だから金銭は捧げませんが奪うことを許してください」のようにして振る舞う者もいるが、俺から言わせてもらえばそんなのは、ごく一部の “本当に余裕のない人” を除いては、「逃げでしかない」。金という『信頼の証明書』がどこにも無いからである。
俺自身が「完全にそう思っているわけではない」にせよ、そんな思いとは無関係に、社会の法則が、人々の無意識を黒く染め上げ、人々を無自覚に歪ませる。そんな光景を実際に見てきた。体感してきた。他人の欲のなさをいいことに、好き放題、自分に都合良く動いて、我欲を満たそうとする者たちを脳に刻み込んできた。

『信頼』というのは、その『都合の良さの免罪符』であるとでも言うのか!?

ガチで心では信じています、というのならまぁそれでもいいが………心で信じることも、そんなに軽いことではないぞ? むしろ、金銭が関与しない分、もっと重い。他の者に信頼の要素が回される分だけ、重くしないといけない。
要はな……………金を得ようとしなければ、それはそれで、もはや “信仰心” で試すしかなくなる。そうなれば、それこそ「教祖」と「信者」の関係のできあがりだ。俺は、誰かにそんな重さや不健全さを背負わせるのも、それはそれで違うとも思っている………だから、金銭の方が気楽っちゃそうなんだよ。

相手に「対価はいいから」と言われながら利益を得たときに、最も試されているのは他でもない、『その判決を言い渡された側』であるのだ。たとえ相手にはそんなつもりはなくて、それが純粋な善意であったとしても………。
これは、『存在価値』の観点の話なのであって、それこそが資本主義の生んだ、“存在の条件” なのである。

自分の金が、他人の金として入っていくことで、経済も社会もまわるのであり、それによって俺たちは今を保てるのであり、金がある以上、価値に対しては、ちゃんと金を捧げることで『他人を認めて自分を認めること』を証明することこそが、自他の幸福の第一歩となる…………と、少なくともこの資本主義社会はそう規定しているハズである。
それに反することを是としたがる者は、一体何の権利と主張と根拠をもってそうするというのだろうか。

確かに、「互いに信じる気持ち」も大切だし、金銭が関与しない関係ほど、素朴で実直な意思疎通が可能な関係もそうないと思っている。俺も本当は、そういう関係が理想である。

ただ現実として、現代人は……「金銭を与えないでいい相手のことは、まるで下僕………いや、下僕ならまだいい方で、大半は奴隷のようにして扱うことに『恥』すら感じられない」、そういう性質がある。どいつもこいつも、自分だけはホクホクと利益を手にしながら、安寧を確保しつつ、しかしそれでいて自分のことはないものとしながら、他人を慮ることなく奪うだけ奪い、消費するだけ消費し、醜悪な笑みを溢し続けることに、存在価値を見出すのである。

そうして、完全なる善意の表明は、それはそれで甘えの気持ちや依存の欲求を誘発し、かえって数々の横暴・横柄を招くものとなる。“美徳の精神” だけでは超えられない問題があることは、理解していただけただろうか。

もちろん、タダで奉仕する「ボランティア」という概念もあるにはあるわけだが、そういう行動をするのは、元より余裕があって、他の行いで対価を得ているような者が多いと考えるし、その『ボランティアの行動の価格』も言ってしまえば些細なもの(つまり固有的ではなく、誰にでもできそうな動き)だから、その分の対価を投げ出してもまず大損はこかないわけだ。
そこら中に散見される “優しさ” が、何によって保たれているかというのを考えた時に、『金銭的な余裕』及び『心情的な余裕』という土台がないわけがないのである。
(それはそれとして、いずれ俺も余裕ができたら、ボランティア的に動きたいとは思っている。)

ゆえに、相手がクズだからこそ保たれる善性・善行もあると知れ…………自分に都合よく動くことしか能がない、二転三転が十八番のクズには分からないか?
「二転三転が十八番」って、もう数字多すぎてわかんねぇよ。


また、金とは言わば、優しさの源泉でもある。普通、他人に対しては優しさを持てないような哀れな人間が、金銭を拠り所として、善性の維持に努めている場合もある。

確かに、金銭の関与・余地などなく人に優しくすることや信じられることは一見素晴らしいことであるし、自然的感性に寄り添ったなら、それは紛うことなき事実であろうが、時にそのような清廉潔白は、他人の優しさの源泉を破壊する『悪』にも成り得ることは、ただ優しいだけでは終われない宿命にある人間は、覚えておいた方がよいだろう。



………そんなわけで俺も、ちゃんと社会に沿う表明をする意味も込めて、“ほんの少し”クズになり、「欲しいものリスト」くらいは置こうと思っている。
要するに、他人に向かう分を、俺に向かわせる余地を置かせてもらう。

捻くれたものは、そうしたいからグダグダ言い訳じみたことを書いたんだぁ~~、とでも思っておけばいい。そいつが常日頃何を感じ、どこまで自発的に思考を展開させているのかは知らんがな?………チビスケが…

しかしそれは、俺がこういう論法で横暴することを容認させるためなどでは決してなく、俺が余裕を得ることで、もっと他人に俺を還元していける俺を手に入れるためだ。
けどそれでも、ゲームとかそういうキモいもんは置かん。せいぜいちょっとした飲食物や日用品くらいかな……。特に、週何回か老いた親に飯や日用品を買わせて持って帰らせているから、その負担を減らしたいってのがある。

まぁこの辺は、後々ルールを変えていくのはあるかもしれんが*2それでも俺は、このブログを金に変えまくろうと思っているわけではない、たぶん永遠に。……ということは言っておきたい。そう言っておくが、固定される筋合いもない。俺は、俺。

俺的には、金を得るなら、プログラミングを学んでコード書いて得るとか、ゲームを作って売るとか、絵を練習してFANBOXやるとか、出来ればそういった素朴に社会に則った方法で儲けていくべきだと基本的には考えている。その手段で稼ぐ金については、俺は咎められるつもりはない。たとえ億稼ごうが。心配せずとも現状そんな力全くないけど。

ただ現代では、現実に「『人間(キャラ)』を金に変えられる仕組み」があってしまうから、それまた社会に則った方法であるし、正攻法でもあるとは思えど、やはり俺は、キャラ以上に“人間”でありたいのだ。だから、俺の人間性の純度の高い分は、極力金には変換しない。俺は、そのようにして動く。

ただ、人間であっても、善人だとかそういうしょーーーもない評価は要らんから、そういう意味でも、俺は若干は“悪人”に染まる。別に、本当は悪でも何でもないんだけどね………そういうの、ほとんど僻みだし、酸っぱい葡萄理論なんだ。じゃあなんでこういう話するかって、捻くれているからだね。キツネ共よりもよっぽど。

はてさて、俺が何も得しないことと、少しでも得すること………総合的に見て、他人にはどっちの方が利になる可能性があるかな?
現代では「フォロー&RT」キャンペーンのようなバラ撒き行為があるように、もしかすると俺が動いて成功者からお金をふんだくって恵んでもらって儲けられたなら、そこから社会の負け犬限定で儲けたぶんを分け与えるようなこともできるかもしれないが、俺を「稼いではならない」と一方的に決め付けたなら、その可能性すらも最初からなくなることになる。……どうせミリでもあるか全くないかなら、ある方にかけて、俺をこき使う感覚で放っておけばいいんだ。それこそが信用と違うのか。
この俺はまさに『 呂布 』だから、喰える存在ではなかろうけど、まぁ俺をどう見るかは人次第だ。
ただ結局は、俺が一人の人間である以上、全ての人間の願いを叶えるのは無理だってことよ。

まぁ、ここまで長々と書いたが、どうせそんなウハウハな展開になるとも思っていないんだけどねw もしあんまりにも儲けまくるようなことになったら、自制も考えていこうかと思う。儲けてほしいなら、儲けてもやるがな。

その辺は現状何とも言えませんね。ていうか、欲がないから今後も、意欲的に動きそうもないっていう。そんなのより俺は、「ないよりマシ」な存在でありたいのよ。ただ、俺の納得の為だけでなく、記事のネタとしても、こういう話はしておいたというわけだ。あ~ 長かった。

 


あと、俺がこんな風に長々と話をするのには一つ理由があって………

かつてとあるコンテンツのホームページ(ファンサイト)を運営していた時に、サイトに来てくれる人のコンテンツへの愛が思いのほか深かったので、美徳の精神でアフィリエイトを置かないようにしてたんだよ。最初は置いてたけど外した。けど、まぁそいつら、コンテンツへの愛情はあっても人間への愛情はてんで無くて、んでその界隈の中で厄介な問題もあったし、俺もメンタル病んで最後には破滅した。

一部の人間は、金銭を含んだ栄誉を中心とした価値観で、それはもう腐っている。それらに対抗するためには、儲けることによって自負を保つしかないところもあると思い知った。

要するに、誰しも、いかにも “自然的” に 「他人を数字で決めている」ところがあるからこそ、“不自然” にでも「数字で自分を決めなくてはならない」ところがあるということだ。

酸っぱい葡萄理論に構っていたら、それこそ構う理由を見失う。腐った感性を受け入れてやって、俺の感性でそれを反転させるもない。金は、俺という孤・個の存在証明でもある。

かといって、じゃあ完全に黙っていたなら、この辺に関して、誰が何を思えるというのか。
ふっ、どうせ『強欲』か『奴隷』かの二択だろうが。あるいは、自分をなげうってまで行う『献金』か……?

 


 

*1:何故なら俺は、人の価値は必ずしも金では測れないと思っているから。つまり「儲ける=悪」も「儲ける=善」も置かないことで、「儲けない=悪」「儲けない=善」も確立し、俺はどんな人間に対しても出来る限り平坦な目線を行使しようとしている。

*2:単なる予防線ではない。人は状況によって動き方を変えざるを得ないこともある。これを理由に、強欲に染まる気はない。